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(2002/09/16 プロパン・ブタンニュース)


北海道LPガス協会会長 北海道エナジティック会長
若松知次氏
お客様ふれあい運動 in 北海道

  北海道エナジティックの若松知次社長は昭和30年代の後半、それは石炭がエネルギーの中心をなした時代の末期だったが、北海道炭鉱汽船会社に奉職して暖房炭の販売を担当した。昭和35年にはわが国の出炭量が5500万トンのピークを記録した。石炭の用途は原料炭、電力用炭、暖房用炭の三本柱だったが、北炭の幌内炭は火力が強く、長持ちするので暖房炭として最適の定評があった。会社の方針としても暖房炭の需要を拡大することに重点を置いていた。若松さんは使命にもえて全道をくまなく歩いた。そのとき末端の現場を見て、北海道が広く寒冷地であることを実感した。そしてお客さんを大切にする気持ちが湧いてきた。これが自分の原点になったと言う。
 いまプロパンを販売をして、北海道LPG協会長だが、この話を聞けば、道協会が実行中の「お客さま触れ合い運動in北海道」の胸のワッペンの説得力が増す。
 北炭の幌内炭は暖房炭の金看板
 昭和28年に北大の経済学部を卒業して北海道炭鉱汽船に就職したが、同55年に北炭の指定販売店の札幌石炭の取締役として転出するまで北炭でその大半を営業畑にいた。同44年から10年間、東京勤務になったが、販売課長代理だったり、営業部長のときも暖房炭の販売に北海道だけではなく九州にまで出張して現場を歩いた。北炭の幌内炭の看板は暖房炭販売業者にとっては金看板だったのである。
 他方、エネルギーの変遷は急で石炭専業会社だった札幌石炭は35年に日本石油ガスの代理店となりLPGの取り扱いを開始、37年には日石の特約店になり石油製品の販売も始めた。札幌石炭に取締役総務部長で入った若松さんは平成4年に社長に就任した。
 北海道エナジティックの誕生
 平成9年4月、札幌石炭は北海道石油瓦斯と合併して北海道エナジィックがスタートした。北海道石油瓦斯は昭和35年に北炭の専仲7社が北炭の了解のもとに日本石油ガスの総代理店として岩見沢に充填所を建設しての発足だった。39年からは日本石油の石油製品も販売した。資本関係が同じで同一商品を取り扱う両者の合併が重複する設備投資を整理・排除し、経費を削減して経営基盤の強化と需要拡大をはかることができた。北海道エナジティックの社長に就任した若松氏は「全道一の燃料販売商社、エクセレント・カンパニーを目指す」と強調した。
 かくてエナジティックは安定した実績を積みかさねている。平成10年度から12年度のLPG、石油類、総売上高は次の通りである。10年度=LPG―37億7千3百万円、石油類―59億9千7百万円、総売上高―133億7百万円、11年度=LPG―39億9千9百万円、石油類―70億1千3百万円、総売上高―145億百万円、12年度=LPG―42億1千7百万円、石油類―86億6千百万円、総売上高―163億6千4百万円だった。
 石炭博物館見学記
 夕張市石炭博物館を訪ねた。時間の都合がつくなら夕張に行きなさい。石炭の歴史村を夕張市がやっていて石炭博物館があって観光スポットになっている。
 そう言って夕張行きをすすめる若松会長は、かつての炭都、夕張に特別の愛着を持つ面持ちであった。
 夕張の炭鉱は若松さんのルーツなのだから。若松さんのすすめに筆者は一も二もなく同意した。筆者もその上、夕張を訪ねたことがある。昭和26年9月末のころだった。駆け出しの新聞記者のころ炭鉱めぐりをした。札幌から夕張に向かう汽車にはルンペンストーブを焚いていた。そして将棋の駒と将棋盤があって乗り合わせた中年の男と一盤さしたことがあった。あれは夕張行きではなく、美唄に向かうときだったかも知れない。茫々たる往時の記憶をたどりながら今回は川村信札幌支局長の運転する車で行った。
 半世紀以上も前に夕張鉱にやって来て、そのとき炭丈(すみたけ)が六尺層、八尺層、十尺層の三つの炭層から構成されて夕張の石炭層がいかによいかを教えられたのを思いだした。その露頭を、いま模擬坑道を出たところに見ることができる。模擬坑道では掘進作業、長壁式採炭現場、タヌキ掘り採炭現場等をみて興味がつきなかった。


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