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(2002/12/09 プロパン・ブタンニュース)


丸八社長
大ア利明氏
ガス事業にロマンをもたらす

 富山県魚津市の株式会社丸八の大ア利明社長は昨年12月に3代目社長に就任した。丸八は昭和29年の創業である。創業者社長の大ア利男さんは84歳の高齢だが、お元気で相談役として今なおご自分で運転して出勤している。そして2代目社長だった現会長の生駒晴俊さんは、本業の傍ら富山県中小企業者同友会(四百社)の代表、家庭裁判所の調停委員、法務省の保護司等をする他に茶道の裏千家淡交会魚津支部長、書道は晴峰と号して大平三涛師に師事して三涛会の魚津支部長をするなど地域にとけ込んだ趣味人でもある。
 このような創業者と2代目の跡を継いだ3代目の利明社長は60歳の働き盛りである。そして利明社長は創業者社長が経営の原則とした「直売主義と地域集約」を推進してきたし、さらに発展させている。昭和44年に黒部地区の販売業者五社と合併して桜井合同瓦斯を設立した。同社は現在需要家約3千軒を持つ。また、昭和63年には魚津市の12社のLPG販売業者でLPG専門販売会社「東都ガステック(株)」が設立された。その需要家は現在8千軒である。かくして丸八グループは2万軒超の需要家を擁する北陸の雄となった。
 東都ガステックの誕生
 「ガス事業は面で仕事をしなければならない」が相談役(創業者社長)の基本理念だった。そこで魚津市で都市ガスをやりたいと真剣に考えた。新潟から天然ガスを持ってくる考えで石油資源開発から見積もりを取り、設計図面まで書いたものだ。併し埋設管敷設がコスト高でメーター当たりの経費が高くつくことが分かり、簡ガスのメルクマール70戸以下の小規模導管供給に着目したのである。
 この頃、宮崎県日向市の東洋プロパン瓦斯社長だった後藤秀一さんから多くのことを学んだ。後藤さんは宮崎県では公道に小規模導管を埋設した。それを否定する道路法の規定はないと言った。そこで宮崎県での事例を富山県の担当官に電話をしてもらった。後藤さんの会社を訪ねると社長室の壁にはたとえ2軒でも導管でつないだ件数と給湯器の設置台数のグラフがはってある。これに倣って小規模導管供給を徹底的にやった。
 次は地域の販売業者の合併方式である。当時、魚津には農協をも含めて32の販売業者がいた。これらが合併するのには最初に議論を尽くさねばならなかった。機械工業団地とか鉄鋼組合のような組合型の合併は40年代に終わっていた。これからの合併は経営の責任と権限を明確にするためにそれぞれの得意先件数、販売トン数、単位消費量、容器本数等をカウントし計数化して業態そのままを株式とする方法をとった。
 こうして事業運営の決定権と運用体制をもった企業合併方式が創出された。これは対等合併の組合システムと違う。議論を尽くした結果、ガスの将来に対する意識が強く、ロマンを感じた12社が東都ガステックに集まったのである。それらの人々は皆40歳以下の若い経営者であった。
 特老「あんどの里」「デイサービスセンター」
 利明社長は魚津市しんきろうロードに沿って富山湾と立山を一望できる瀟洒な施設「あんどの里」に案内してくれた。ここは特別養護老人ホームあんどの里、あんどの里デイサービスセンターである。利明社長が理事長の社会福祉法人の施設である。この老人ホームの定員は50人、デイサービスは26人が定員である。日通ペリカン便の標語は「戸口から戸口」だが、ここは「ベッド ツー ベッド」だと利明社長は言う。
 現在この施設の入居希望者のウエイティングが100人以上いる。そしてこの種の施設はわが国の老齢化が一層進み、向こう25年は不足し続ける。このような施設をもう一つ建設する計画だという。相談役は特老に力を入れている社長に本業を忘れるなと言うが、社長はLPGを売り、給湯器を売り、増改築を行い、そして景観施設を手がけたわれわれが人々の老後と真剣に取り組むのは正に本業だと言う。筆者があんどの里は大量の湯を使うからコージェネレーションシステム導入の条件があるというと、社長は大いに興味を示した。
 閑話休題 海老名香葉子(落語家・林家三平の細君)のエッセイ集「さみしくなんかなーいよ」の中の一扁「三月十日は涙の日」を転載する。エッセイの生駒さんは生駒会長である。
 三月十日は涙の日
 東京大空襲。富山県魚津から生駒晴俊さんが、ます寿司をおみやげに来てくださいました。忙しい合間を縫って寄ってくださるのです。私はまるで弟に会っているような気持ちになり幼き日を話し合います。実は16年前のこと、私が仕事で魚津へ行った折、立派な紳士が写真を大事に持って訪ねてこられました。
 竹の湯の坊や。「え、竹の湯の坊や」「竿屋のかよちゃんですね」と再会したのです。私は小学5年、彼は3年生のとき東京下町本所の地から、それぞれが疎開し幼友達が別れ別れになったのです。そして昭和20年3月10日、東京大空襲があって下町一帯火の海となって10万余人が焼け死にました。彼も肉親を失い、私も疎開先で一人ぼっちになりました。生駒さんと語り合って、「それでは3月10日、本所へ行ってみませんか。私ね終戦のあくる年から欠かさず、本所へ行って歩いているの。子供を連れて今では孫もなの」と伝えたら、一度参加したいということで私の家族と一緒に寒い寒い日、歩いたのです。私の家の跡も全く知らない人が住んでいます。竹の湯が近づいたらドキドキしました。煙突は昔のままのところに立っています。「なつかしい」。お互いに涙がこぼれました。そして学校の前で立ち止まり、通って町の中の弥勒寺様へお参りです。ところがお線香を頂いている間に生駒さんがいなくなってしまったのです。嫁や孫たちとで「生駒さーん、おじさーん」と大きな声で呼んでいたら、むこうの方から息せき切って走ってきたのです。「どうしたんですか」と皆でかけ寄ったら、「いやー、ごめん、ごめん、實は生駒軒って看板を見たので」。そこまで言って菩薩像にお線香をあげ、手を合わせたあと、静かに言われたのです。「もしや弟が生きてラーメン屋さんをやってんじゃないかと思って、尋ねてみたんですけど、やっぱり違ってました」。赤ちゃんだった弟さん、お母さんの胸に抱かれて逝ったのでしょうけど、何年経っても、もしやと思ってしまうのです。彼も私も泣きました。3月10日は涙の日です。
 故郷は魚津。再会して以来、生駒さんってお呼びしてますが、心の中では竹の湯の坊やなのです。坊やも私も戦災孤児になりましたが、坊やはお母さんのお里で優しくしてもらい育てて頂き、その地に恩を感じるといわれます。その素晴らしい地を見てほしいとお誘いをいただき、伺った折、本当だと思いました。土地の人の温かいこと、またお母様の留袖まで見せていただきました。お骨は東京の地にあるのでしょうが、彼の故郷はもはや東京ではなく、魚津なのだと悟りました。疎開っ子を優しくしてくれてありがとう、と姉の気持ちで感謝します。そんなご縁をいただき、その夜、わが家の食卓は大好物のます寿司で一同舌つづみ。幸せゆえに戦争の悲惨さを伝えねばならじと思ったのです。

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