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(2005/1/17プロパン・ブタンニュース)

石井鐵工所社長 
石井宏治氏
「うらやましきファミリー」

 株式会社石井鐵工所社長の石井宏治さんを勝どき橋にほど近い同本社に訪ねた。石井鐵工所は明治33年、東京月島に創業、西暦2000年には創業100周年を迎えた。そして昨年1月、創業の地・月島に本社ビルを竣工、長年住み慣れた銀座から移転した。不断の努力と研究で紫綬褒章など数多くの賞を受賞、わが国はもとより世界中から「タンクの石井」の名声を博した。しかし、それにとどまらず新技術・新製品の開発に努めて石井鐵工所の製品、サービスは、石油、化学、鉄鋼、電力、ガス、LPガス等の基幹産業から一般消費者までに好評を得ている。かくて石井鐵工所は、タンク・プラントメーカーとして業界に確固たる地位を築いてきた。石井社長は政府の司法制度改革審議会委員、公正取引委員会・独占禁止法研究会委員、経済産業省・資源エネルギー調査会委員等の公職、学会や業界団体の役職を歴任し、とくに現在は(社)日本LPガスプラント協会長でもある。
岳父・鈴木治雄さんの絵
 2階の応接室に通された。その壁に大小の油彩が掲げられている。「教会」「富士山」「ピカソ画室」等である。いずれも昭和電工の社長だった鈴木治雄さんの絵である。鈴木治雄さんの次女・朝子さんが石井宏治夫人である。暫し鈴木さんを偲ぶ話が続いた。岳父を語る石井社長には親しみと敬愛の念があふれていた。筆者はお話を聞きながら鈴木治雄さんの『私の履歴書』(日本経済新聞所載)の最後のくだりを思い出した。「私には年齢的に新人類に属する年ごろの3人の孫がいる」で始まり(中略)「彼らとともに世界を歩き、来るべき時代についてざっくばらんに語り合う。まさに、私の晩年の生きがいの大事な一つである。」と結んでいた。3人のお孫さんの1人は石井社長の息子の宏明さんである。
石井和子訳シュリーマン旅行記
 『古代への情熱』『シュリーマン伝』等を愛読してシュリーマンに憧れをもっていた石井社長は、シュリーマンは日本に来たのではないかと、その文献を探した。ハインリッヒ・シュリーマンの名前からドイツ語の文献を探したが、見付からなかった。フランス語で出版したかも知れないとパリに行ったとき国立図書館で図書カードを検索して「シュリーマン旅行記 清国・日本」(1866年刊)を発見した。これをコピーして持ち帰り、フランス語ができる母上に訳出を頼んだ。かくて平成3年、その訳書の初版本が新潮社から出版された。出版後、各方面の反響が大きく平成10年、講談社学術文庫の1冊に加わり、一般に広く読まれるようになった。学術文庫版の巻末には新潮社初版本の訳者あとがき、学術文庫版訳者あとがき、さらに付としてシュリーマンの館、木村尚三郎氏(東京大学名誉教授)の解説がある。これによってシュリーマンがトロイア遺跡発掘に成功したのは1871年で、本書の旅の六年後であることを知った。
MIT大学院に留学
 今から40年以上も前、それはケネディ大統領が暗殺されたころである。石井社長は米国ボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)大学院に留学した。そのころ、日本から研究に来ていた2人の優秀な先輩と会う幸運を得た。2人とは、若き日の伊藤滋氏(東大名誉教授)と同じく茅陽一氏(同)である。いずれも強烈な個性と温かいお人柄にひかれ親しくお付き合いした。共に自然科学系の学者で、伊藤教授は都市工学、茅教授はシステム制御工学の第一人者である。伊藤氏は文学者伊藤整氏の長男、茅氏は元東大学長茅誠司氏の長男と、偉大な父をもつ方々である。「父親の存在」は重圧となりがちなものだが、このお2人は「勉強しろ」と言われてしたのではなく、それぞれの父上は「学ぶ楽しさ」を身をもって示されたのだろう。学者の家庭に育った両氏は、豊かな資質だけででなく、文化的遺産も受け継がれているのは羨ましい限りである。これらの方々との出会いは何ものにも勝る宝だと石井社長は言う。
研究と教育は別
 石井社長はMIT大学院での授業に言及した。研究と教育は別なものと割り切っている。難しい現象を七面倒臭く論じない。そんなことをしても学生は、ちんぷんかんぷんである。譬え話で分からせる。助教授の講義に教授が出て熱心に聴いている。授業が終わってから教え方を指導するのである。ロボットコンテストもMITが始めたものである。ここで石井社長は例えばと、沸騰熱伝導をMIT流に説こうとしたが、筆者が理科系ではないねと言って話題をかえた。沸騰熱伝導は原子炉が出てきて重要視されている。GHPの熱交換器でも温度は低いが、沸騰熱伝導である。日を改めてMIT流に沸騰熱伝導を教えていただきたい。

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