(プロパン・ブタンニュース2002/2/18)

日本LPガス連合会会長 村瀬三郎氏
LPガスへの深い愛情父祖伝来の企業家精神 
 昨年夏、英国を旅行中の村瀬会長が脳梗塞で入院加療という悪いニュースが全国業界を駈けめぐった。日連幹部をはじめ関係者は憂慮したが、症状が軽微だったこと、そして発病初期の適切な処置が功を奏して旧臘十二月には早くも日連会長の公務に復帰した。
 「ウエーブ・風―話題と肖像画」にイの一番に登場願わねばならぬ村瀬会長だったが、予後の検査入院だったので今日になったのである。
 検査の結果は脳も心臓も大丈夫と折り紙が付いて上機嫌だった。そのためか持ち前の大きな声はひときわ力強く業界の将来像を述べた。
 祖父も父も燃料を業とする家だったと己が出自を、そして自分がどのようにしてLPガスの販売を始めたかを語った。お話を聞けば聞くほど、この人のLPガスに対する深い愛情を、また事業家として厳しい姿勢は一代で作られたものではなく、父祖伝来の血肉の中に受け継がれたものであることが分かる。
十年後の業界像が描けていない 
 業界の将来像、十年後の業界の姿をどう描くかと設問すると、そんなの関係ないと言う。「今の若いものは」といった表現は使いたくないが、過去を調べず、現状を分析せず感覚だけで物事を判断する。テレビ人間とでも言おうか、これでは将来像が描けるわけがない。昭和六十三年に業界の将来像を描いた文書を書いた。多くの人々から無視された。今でこそバルク・システムは常識となっているが、当時そんな法律は通らないと言われたものだ。通してみせるとがんばった。
 メーター販売にしても昭和三十八年に名古屋市にあった中部品川というメーター・メーカーに協力願って始めた。法制化は四十八年だから十年早く始めた。IT通信も通産省が取り上げたのが昭和五十八年だったが、わが社は五十二年スタートだから五年ほど早い。これらは思いつきではない。論理的帰結である。これによってLPガスに幅(はば)を持たせようと考えたのである。これから自由化が進み、エネルギー間の競争が激化する。LPガスはヤラレッパナシではない。こちらも攻めたらいい。そのために競争力のパワーアップが必要なのである。
 このような考えを村瀬文書として体系的にまとめたいわゆる「村瀬ビジョン」という文書がある。その正式名は、「LPDC21」(LPG DESIGN COMMITTEE 21)について―LPガス業界の更なる発展を期して―」である。
 これは平成十二年四月、故伊藤實会長時代に「21世紀LPガス業界振興推進特別委員会」が設けられ、村瀬さんが委員長となり、自身で執筆したものである。日連史にのこる文書だと思う。
村瀬さんのプロパン事始 
 村瀬さんのプロパン販売開始は、昭和三十五年七月十四日に高圧ガス販売許可を取得しているから薪炭系老舗としては比較的遅いスタートだった。明治四十三年に父、鉄治氏とそのご兄弟で始めた村瀬商店は長良橋たもとに店を構え木炭を主体に石炭、コークス等燃料を手広く扱った。山間部の木炭生産者から買い付け、これを馬車で運ぶ。そして倉庫に格納し、時機をみてこれを都市部の薪炭商に卸すのである。
 生産者にとっては生活の糧(かて)だから現金で払い、薪炭商への卸は年に二度の回収である。だから年の暮れには売り掛けをどれほど回収するか、金を集めてはじめて商売だと、父鉄治社長が番頭たちを厳しく叱咤していた姿を思い出す。戦時中は統制組合長をして燃料商を束ねていた。
 そんな風だから跡取り息子の取締役の村瀬さんがプロパンを始めようと言い出したときは勘当だと言って叱られ本当に勘当されてしまった。あの時は銀行取引の保証人にもなってもらえず困った、と当時を述懐する。
 鉄治社長がプロパンに反対する理由は、そんな相場がはれないような事業は商売ではないと言うのである。そう言えば、親父は倉庫に木炭をたくさん持っているとき豪雪に見舞われようものなら店の戸を閉めて、店員たちに遊びに行ってこいと言って、商機を狙ったものだ。そんな親父が後にプロパン事業を認めたのは、エネルギーの変遷、別の言い方をすればエネルギー革命の進行である。
王将の歌手、村田英雄とは小学校の同窓
 祖父はカンテラ油を売る商人だったが、電気に駆逐されたのだから親父もエネルギーの変遷に気がつかぬわけはなかったと思う。だが、親父はそうは言わなかった。私がプロパンをシェル石油から仕入れているのを見て、こう言った。「利は元にあり」と言う。「シェル石油なら元がしっかりしているからよかろう」と。かくてようやく勘当はとかれたのである。
 長良川のほとりの旅館・杉山の辺りに村瀬会長の家はあった。そのあたりには鵜匠の家があり、子供のころよく遊びに行ったものである。一緒に行くのは愛称キン坊の村田英雄だった。キン坊は近所に浪曲師の酒井雲がいて、その内弟子として村田英雄がいた。唄がうまく、頭のテッペンからキンキンした声で酒井雲の前座をつとめた。そんなことからキン坊の愛称となったのだろう。二人はそろって相当な暴れん坊だったようだ。村瀬家では会長を若(わか)と呼んでいた。こうした環境の下に若は事業家としての素質を育んだのである。
 村瀬産業の専務・愛知邦夫さんは、お父さんも先代の鉄治社長の番頭さんだった。二代続いての番頭さんである。愛知専務は会社でも団体でもその運営に独断専行はなさいません。必ず機関決定を経て行動に移されます、と言った。ワンマン社長かしらと思っていたが、民主的だなと見直した。
 岐阜市は建国の日に雪が降り、訪問したとき二十センチほど積もっていた。そのねぎらいの気持ちもあってか、また健康を回復されて高揚した気分もあったのだろう、若き日のこと、幼いころの思い出を話して下さった。この一文は現在から子供のころに向けてその生い立ちを逆にたどった。

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