(2002/03/18 プロパン・ブタンニュース)
名古屋プロパン瓦斯社長 後藤庄樹氏
「グランドデザインに異議あり」
「ごっちゃん」の肖像画と語る
名古屋プロパン瓦斯会社に後藤庄樹社長を訪ねた。社長室に通されるや、先々代社長の後藤新治氏の肖像画が目に入った。庄樹社長がご自分のデスクにつくと否応なしに対面の壁の肖像が語りかけてくるように肖像画は掲げられている。肖像画は笑みをたたえ、やさしく諭す風情だが、庄樹社長が厳しい経営判断に迫られたときには厳格なお顔をなさるのだろう。そんな思い入れで肖像を眺めれば、胸に藍綬褒章と勳四等瑞宝章の勲章が輝いている。
庄樹社長にインタビューにきたのに暫くの間、筆者は新治社長とお話をしているような錯覚に陥った。「ごっちゃん」と愛称で呼ばれていた後藤新治さんのプロパン創業は昭和二十九年、横須賀の相模プロパンの先代社長、水沢誠三郎さんや小田原の丸江プロパンの初代社長、江島平八さんを訪ねてプロパンの移充填法などを見聞して名古屋で旗揚げしたのだった。そのとき「ごっちゃん」は二十八歳の若き経営者だった。
もともと名古屋プロパンは小牧市に本社がある明治三年創業の絹庄商店が母体である。スタンダードヴァキューム石油の特約店で、今も株式会社絹庄は東海地方の有力な石油販売会社で名プログループの中心的存在である。その絹庄が別会社を創って始まったばかりのLPGの販売をやろうというのだから大いなる経営的決断だったに違いない。それは時代の趨勢でもあった。石炭から石油そしてガスへのエネルギー革命に身を挺して戦った後藤新治さんの先見性でもあった。
後藤新治さんは業界の信望を集め、昭和三十年にできた愛知県プロパンガス協会で、長老の沢田寿衛会長の副会長を長くつとめ、昭和四十六年以降は会長となり、中部地区プロパンガス連合会会長もつとめ、日連副会長でもあった。やがて日連を背負って立つ人だと誰もが信じていた。そんなに嘱望されていたのに後藤新治さんは平成元年に六十五歳の若さで亡くなった。その息子の庄樹社長にいま親父さんだったら現在のLPG情勢をどのように見、いかなる行動を起こすだろう、と考えながら質問した。
イチローの実家にもガス設備
電力会社がIHヒーターやエコキュートを引っさげてオール電化住宅の掛け声をあげているが、今の段階ではそんなに怖い商品だとは思はない。十分に競争できる。協会でもパンフを作って炎を使ったよさを強調している。向こうがオール電化でくるなら、こちらはオールガス化で迎え撃てばよい。オールガス化とは床暖、浴室乾燥、GHPのセット販売だ。そうは言っても客とのコミュニケーションが薄ければ電気にやられてしまう。身近な例だが、有名なイチロー選手の実家が豊山町にある。わが社に水野恭祐という者がいて彼がイチローを愛工大名電高の監督に紹介して野球人生をひらいた経緯があってイチローの家とはじっ魂の仲である。そんなわけでイチローの実家の床暖を初めガス設備は一切わが社が引き受けている。われわれの事業は容器の配送、保安点検時にお客さんとの接触の機会が多い。ここのところを強化したい。また、電子メールの活用を実施している。ホームページは同業者がよく見るが、お客さんは見ない。電子メールは双方向になるし、最近は奥さん達も忙しく不在がち、そういう場合にメールは有効である。
二世社長で業界の将来像を
ガス料金は実情に即して柔軟にブロック料金を実施していけばよい。首都圏で大変安い料金が出現したからと言って直ちにそれに右へ習えをする必要はない。関東は関東、愛知は愛知である。コストダウンは第一段階、第二、第三段階と、それでも利益がでるようにシミュレーションをしている。それよりももっと心配なことは、ガス市場整備研の「グランド・デザイン」の行方である。そこには今あるものを否定する考えがあるように思えてならない。バルク供給設備などかなり投資して積み上げてきたものを壊してしまう。このあたりは賛成できない部分である。日連はこの問題でもっと声を大にしてもらいたい。
私は四十二歳である。十年後は五十歳台、二十年後は六十歳台である。その時に業界がどうなっているか、夢を描きたいものだ。目先だけにとらわれた行動では夢が無さ過ぎる。自分と同じように二世で社長になった人たちが自分の商売ではそこそこにやっているが、業界規模ではやっていない。自分の会社では思う通りにやっていけるが、業界の将来像に向かって二代目社長が行動を起こす時だと思う。将来に向けてのLPGのグランド・デザインはわれわれ若手が書かねばならない。
後藤庄樹社長の話を聞きながら思った。かくて歴史は動くもの。心なしか、肖像画の後藤新治さんがほほ笑んだように見えた。
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