(2002/05/13 プロパン・ブタンニュース)
アイ・エス・ガステム社長 石井誠一氏
曽祖父このかたの事業家魂
  アイ・エス・ガステムの石井誠一社長を千葉県船橋市の同本社に訪ねた。この会社の創業は明治17年と古く、曽祖父・石井巳之助(千葉県市川市曾谷の人)が東京本所相生町に薪炭問屋、石井商店を開業したことに始まる。その曾孫の石井誠一社長は、平成7年に父、誠氏(現最高顧問)を継いで社長に就任した。誠一社長は新世紀を生き抜くためにLPガス事業を拡充強化する一方、リフォームや環境事業に傾注するとしている。そして誠一社長は父祖伝来の事業家魂と言おうか、骨の髄からの経営者である。筆者は誠一社長の就任以来の社内報を読んでその感を一層深くした。
 平成12年7月発行の「創立五十周年を迎えて」という社長の巻頭言に次のような一節がある。「過去の日本を見るに(中略)日本の国が成長したからこその恩恵にあずかった企業が伸びた。いくら一企業だけが頑張っても人々が裕福で心も満たされていなければ、どんな商品もサービスも利用されない」。さらに続けて「そう考えると、創立五十周年を迎えるに当たり心からお蔭様でと感謝したい」と述べている。
 これは先々代社長、祖父の石井信吉が昭和25年に千葉県市川市で石井商店を株式会社に改組して社長に就任したときから数えて50周年の辞である。誠一社長の血脈の中に脈々と流れている経営者魂を知る上でもう少し遡って石井家の家系の主要な人々の業績を見てみよう。
 曽祖父・巳之助が東京本所に薪炭問屋を開いたことは先に述べたが、それに先立って資金づくりのために米の枡売りによる小売をした。掛けの売買が常識の時代に現金薄利主義を標榜して始めたこの米の枡売りによって資金を蓄えることができた。より安定した商売は何かと考えて薪炭卸問屋を始めたのである。そして本所に五つも倉庫を持つようになった。昭和九年、創始者、巳之助は営業の本拠を東京本所から別宅があった千葉県市川市に移した。関東大震災があった本所をあとに郷里の市川市に営業の中心を移したのである。しかし、学者気質の曽祖父は戦中、戦後を通じて統制時代には殆ど商売をしていない。また、「闇」には手をそめようとしなかった。こうして昭和二十五年に先々代社長・祖父の石井信吉にバトンタッチした。そしてこのとき株式会社に改組した。それから昭和39年に先代、石井誠が引き継ぐまでの30年余が祖父の社長時代である。
 先々代社長、石井信吉の薪炭卸事業の再開
 昭和25年ころは薪炭の卸では掛け売りが常識の時代である。この時期に先々代社長は現金薄利主義を標榜した1頁大の新聞広告を出して世間の評判となった。当時の国鉄市川駅は石井商店の薪炭が山積みされて荷捌きができぬほどの繁盛ぶりだった。こんなふうだったから千葉県一の薪炭商をもって任じていた石井商店が新時代の燃料として漸く脚光を浴びだしたプロパンに眼もくれようとしなかった。そのためにLPガスへの進出が10年ほど遅れた。
 先代社長、父の石井誠が社長に登板
 昭和39年、石井誠が社長に就任してLPガスの直売を始めた。東京や市川市を中心に新規のお客を獲得してガスの直売に奔走した。そのころ父の休日は正月の元日だけ、夜も枕もとに電話機を置いて寝るといった具合だった。父は建築業者と付き合えと強調した。お客のいるところに連れて行ってくれると言ったものである。また、協会の都市ガス対策委員だった父は貸与配管という方法を早くから実行した。今日の設備貸与の三部制料金につながる着想である。
 父の誠社長は昭和42年に松戸市に営業所開設、同48年に船橋LPガス供給センター開設、同49年にコンピューターを導入して事務処理・保安管理を合理化し向上させた。同63年には社名をアイ・エス・ガステムに変更、平成2年には船橋市に現在の本社ビルを完成、平成3年には八街物流センターを開設、平成5年には茨城物流センターを開設、平成6年には船橋市に本社を移転、そして平成7年に現社長・石井誠一が代表取締役に就任、石井誠の社長在任の30年余はLPガス事業への立ち遅れを取り戻して、果敢なるLPガス普及を図った。
 誠一社長のアピール=地域ナンバーワン
 今やLPガス業界は小選挙区型業界になっている。わが社は千葉、茨城県のようなガス業界にとって極めて有望な地域で、需要家件数7万、LPガス販売量年2万2千トン、年商62億円と、この地域のトップクラスの地位を得ているが、油断は禁物である。各地域、各市町村で1位か2位でなければ生き残れない時代である。勝ち残り競争は熾烈をきわめている。
 何としてでもナンバーワンたれと石井誠一社長は全社員の先頭に立って奮闘している。


 プロパン・ブタンニュース2002/5/13 ナリケンがゆく ウェーブ・風  話題と肖像画


最初のページに戻る