ウェーブ・風 話題と肖像画 ナリケンが行く
(2002/08/26 プロパン・ブタンニュース)
山口県LPガス協会会長 日之出石油瓦斯社長 | |
小笠原幹夫氏 | |
ルールブック第一条はエチケット |
日之出石油瓦斯の小笠原幹夫社長を山口県下松市の本社に訪ねた。小笠原社長は山口県LPガス協会会長でもある。筆者が来意を告げると小笠原さんは、おやじ(日之出石油瓦斯の創始者、中津井精一さんのこと)は山口県協会会長を二十七年間もやったし、日連の副会長もしたからあなたは何度も会っただろう。今朝、中津井さんの奥さん、みつ子さんにお会いした。九十歳になったので卒寿の祝いをするので出て来いとのことだった。この話はわれわれの会話を忽ち半世紀ほどタイム・スリップさせ会社創業のころを思い起させた。
昭和三十二年、出光興産徳山製油所のFCC装置稼働に伴いLPG販売特約店六社が全国から選ばれた。その一つが日之出石油瓦斯である。地元徳山市の七販売店で設立、事務所は出光が最初に徳山に来たときの出張所を借りてのスタートだった。会社設立の発起人には中津井さんのお父さんの満世さんもいた。中津井さんはゴルフの名手で周南カントリー倶楽部のキャプテンだったし、中国ゴルフ連盟の役員もしていた。戦争中満州で活躍したが、出光計助氏ともそのころゴルフを通じても交流があったのではないか。他の特約店五社は全国の大手業者である。それらに伍してのスタートだった。小笠原社長は創立当時に入社した。
土橋を補強し貯槽を運び込む
昭和三十八年、広島の廿日市に二十dストレージタンクをあげての工場建設はいい勉強になった。二十四、五歳だった。土地の買収からプラントの設計、施工までやった。第一号の製造許可事業だから苦労した。神戸の川崎製鉄からタンクをトレーラーで運んでは来たが、現場近くに川があって、その土橋を渡れない。土橋を補強して漸く運び込んだが、山側の崖が邪魔になる。困り果てておやじに相談したら、そんなこと現場で考えろという。しかし、おやじはゴルフ場からブルを借りてくれた。仕事が辛ければ辛いほど、それを乗りこえるごとに身についた。顧みてそれらはすべて仕事の原点となった。おやじは昭和六十三年に亡くなった。七十七歳だった。亡くなる半年前に跡を継げと言われ、考えさせてと言ったら俺が命令しているんだと仰って、お引き受けした。
狙われているLPG消費家庭
中国電力のオール電化攻勢は厳しい。LPGの消費者を狙い撃ちしているのではないかと思われるほどである。中国電力は全部うちのお客だ。電灯が点いていない家があるか。そこに電磁調理器や電温を売って何が悪い、といった調子である。LPG業者は配管してメーターをつければお客を縛りつけたと錯覚してきた。自分のお客を大切にするように自らを鍛え直さねばなるまい。電磁調理器がてんぷらの揚がり具合で、焼き魚の焼け具合で、ホットケーキの出来具合で明らかに不具合なことを、そしてLPGが断然いいことを消費者に分かってもらう努力をしようではないか。そして何よりも健康のために「電磁波を慎重に回避」することを訴えねばならない。電磁調理器だけではない。乾燥機も給湯器もLPGが電気よりも有効なことを客にPRすることだ。電気だけが競合燃料ではない。都市ガスも最近、天然ガスに原料転換を終えて余剰人員を営業に振り向けている。LPG業者は目を覚まさねばならない。協会も秋にはこれらの講習会を催す準備をしている。
配送の共同化すすむ
日之出石油瓦斯のバルクシステムの導入は早く、平成十年十一月だった。正確には小笠原さんが代表である出光ホームガスセンター山口が導入して出光グループが共同利用した。出光グループだけではなく、高山石油ガス(日石系)、山田石油ガス(三菱系)、岩谷産業等も共同利用した。現在は自社のバルクローリーを持つ会社もあるが、出光ホームセンター山口の二・三dのバルクローリーは月間百d余を配送する。これは共同するどこの会社のものを運んでも配送費だけをいただくシステムが確立したからである。山口県は徳山市に出光興産の大きなLPG受け入れ基地がある。そして日石、三菱、興亜が一つになり、そのLPG販売シェアは三〇%におよぶ。これらの条件は共同配送を容易にした。石油会社毎の色彩が強く、また会社毎にコンピューターが異なるのも共同化を阻む要因となる。本社が他県にある出先の営業所の場合も本社の承認を得るのに手間どり、これも共同化を遅らせる。広島で広島ガスプロパン西部販売による共同充填、共同配送が成功したのも広島食協がJAに譲って小異を捨てて大同に就いたことが大きいと思う。共同化を進めるには小異を棄てて大同に就く気持ちが大切だ。そうすれば配送コストはまだまだ下がる。
こう語る小笠原さんは山口県協会長になって五年。少しのけれん味もなく、中津井さんが最も大切なものとしたジェントルマンシップを受け継いで、人々を安心させて大同に就かせることだろう。
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[後記]この稿を起こすに際して中津井精一さんが何か書き遺したものがあるだろうと探したが、中々見付けることができなかった。やっと探しあてたのが、昭和四十八年ごろに書かれた社団法人周南カントリー倶楽部キャプテン中津井精一著「ゴルフエチケット」である。この冊子を借り出して読み、いたく感銘をうけた。
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