ウェーブ・風 話題と肖像画 ナリケンが行く
(2003/2/24 プロパン・ブタンニュース)
イデックスガス社長 | |
権藤 烈氏 | |
「阿弥陀の森」を実現 |
イデックスガスは、新出光(本社・福岡市、出光芳秀社長)がLPG事業を強化するために同社のLPG部門を分社化した会社である。その初代社長・権藤烈(いさお)さんからお話を聞く前に権藤社長と新出光のLPG部門とのかかわり合いと言おうかそもそもの馴れ初めから、そして新出光のLPG部門の分社化にいたるプロセスを年表風にまとめてみよう。
昭和43年、新出光入社。石油畑を歩き、長崎、久留米、北九州、名古屋の各支店に勤務。平成元年、福岡支店次長として特約店課(石油)とLPG課を管掌、この時からLPGとのかかわりが始まった。福岡支店にガス専門の支店を作るべく設立準備委員長になる。平成2年10月、福岡支店にLPG専門支店を作る。平成3年3月、福岡ガス支店誕生、初代支店長になる。福岡についで西九州、北九州、大分など相ついでガス支店が設立された。平成9年10月、LPG専門支店づくり完了。平成11年4月、本社LPG部長。このころは時代の変わり目で、現場の旗振り役を担っただけに本社のLPG部長として何が重要課題であるかを知悉した。消費者との繋がりの深さ(新書面の交付)と物流コストの低減こそが大切であることを痛感した。平成12年6月、本社取締役。平成13年4月、直売9社を統合してイデックスガス誕生。平成14年10月、本社LPG部を分離して子会社イデックスガスに吸収合併。かくて卸事業のウエートが高い新出光のLPG部門と直売事業と特約店へのサービスの両方を強化する新体制が成ったのである。分割吸収方式で発足したイデックスガスは、資本金=3億円(新出光100%出資)、会長=新出光の出光芳秀社長、社長=権藤烈取締役LPG部長が就任した。
何回けられても分社化構想を提案
新出光の定例取締役会は年に四回ある。権藤さんはLPG部門の分社化構想を毎回取締役会に提出し続けた。新出光は石油中心の会社である。石油の売上高2千億円に対してLPGの売り上げはその5%の100億円である。会社運営が石油中心になるのも無理からぬところである。新入社員の教育にしても入社すればまずガソリンスタンドに3年勤務する。石油で要らなくなったらガスにまわすといった具合である。会社に入ったときからガス要員という人は皆無だった。これでは専門性に欠ける。LPG部門は消費者とのパイプを太く密にする上でも専門性がものを言う。そのために権藤さんはLPG部門分社化構想を何回蹴られようと提案し続けたのである。そしてそれが日の目を見ることになった。平成13年9月の役員会はこれを承認決定した。
苦心惨たんの一年間
新出光は、九州各地にあるLPG直売子会社九社を統合して平成13年4月に「株式会社イデックスガス」を発足させたことは前述の通りだが、役員会はこの直売子会社イデックスガスに本社LPG部門を吸収させて翌平成14年10月にはLPG専門会社を立ち上げてLPG事業の新体制をつくることを決めた。因みに九州各地の直売子会社は、福岡イデックスガス、中九州イデックスガス、北九州イデックスガス、大分イデックスガス、熊本イデックスガス、鹿児島イデックスガス、厳原イデックスガス、平戸新出光ガス、西九州イデックスガスの9社である。
この決定から新体制発足までの1年間は言葉に言い尽くせない苦労の連続だった。新出光から転籍する100人からの人々と直売会社の人々との整合性ある給与体系の創設には苦心した。新出光は平成11年に年功序列制から成果主義の新人事制度に移行していたのでこれに則り工夫をこらした。九州各地の事業所廻りも権藤さんはこの1年間に1事業所を3回は回った。また、意見箱を置いて毎月各支店から集めた。それにはこちらが考えもしなかった意見があった。それらはワーキンググループで検討して解決した。そのような体制変革の仕事にはコンサルタントの指導とか、何かマニュアルがあったかと訊ねたら、そんなものは何もない。自分たちで考えた。また、自分ひとりでできるものでもない。社員皆がよくやった。1年は瞬く間に過ぎていった。お蔭でゴルフには行かなくなり、中洲(博多の歓楽街)もご無沙汰だと言う。ゴルフは道具もボールも大変よくなっているが、よい成績をえるためにはプレーの回数を増やすに如くはないと笑う。
やればできる、現場へ行け
権藤さんは遠山正瑛(鳥取大学名誉教授)の沙漠緑化運動に傾倒している。その講演会に出かけるだけではなく、沙漠緑地化の発祥地ゴビ沙漠のクブチ沙漠にも出かけて行った。ここに1年で2〜3メートルは伸びるポプラなどを植林するのである。国内でも富士山の植林にも行った。日本沙漠緑化実践協会というボランティア団体があって瀋陽の奥地のホルチンに「阿弥陀の森」をつくろうという運動が始まっている。会社の中に同好者が3人いて、3人が揃って行ける都合がつけば出かけることにしている。6月の黄砂が飛ぶときはまともに顔を向けていられぬ凄まじい黄沙だ。遠山先生は「やればできる、考えるだけでは駄目、現場へ行け」と言う。会社の分社化でも先生のこの言葉がどれほど支えになったことかと。
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