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(2003/11/17プロパン・ブタンニュース)

武岡商店社長
武岡大佶氏
天高く馬肥える、日高の里

 北海道静内町に本社を置く武岡商店の当主・武岡大佶ひさよし社長は、同社五代目の社長である。そして北海道LPガス協会副会長であり、同日高支部長である。その他に日高地区LPガス保安センター代表理事など多くの公職を持ち、日高地方LPガス業界のリーダーでもある。
 北海道の行政区は十四の支庁からなり、日高支庁はその一つである。その広さは北海道の一〇%、和歌山県と同等の面積である。支庁管内の人口は八万五千五十七人、世帯数三万六千三百二十五世帯(平成十五年二月末)。これに対し武岡商店は傘下販売店分を含めて一万二千世帯にLPGを供給している。このLPG供給のために静内、浦河、富川にLPGプラントを設け、これらの充填所はいずれも顧客まで四十五分以内で配送可能である。
 武岡商店は、日高地方のLPガス業界のリーダーであるだけではない。子会社に静内石油、武岡石油、富川石油、武岡不動産、武岡牧場等を持ち、ガソリンスタンドは三カ所に、灯油販売量八千`g、石油部門の年商十億円はLPG販売高に拮抗する。その他に酒類販売、不動産、保険代理店、武岡牧場や静内スタリオン・ステーション(種馬場)など競走馬産業と多方面にわたる。これは、武岡家が日高地方開拓者の歴史に由来する。
武岡家の家系図
 明治四年五月、武岡家の先祖・武岡孫三(旧徳島藩士族)は、徳島藩家老・稲田邦植に従い淡路島から北海道静内郡に移住した。このとき一緒に移住して来たのは百三十七戸だった。明治十五年から武岡家は米穀、雑貨、荒物などを扱った商家である。街の発展に伴い本格的店舗兼住宅を新築し、明治三十四年には郵便局を開設するなどこの地方の商業の中心的役割を果たした。札幌市厚別町にある「北海道開拓記念館」は旧札幌停車場や旧札幌農学校寄宿舎など由緒ある建造物と共に明治三十一年築の武岡商店を移築、展示している。大佶社長が武岡家の家系図を見せてくれたので記録しておこう。清吉(初代)―嘉平―嘉一―敏夫(LPG事業や軽種馬産業を始める)―大佶(当代)―大樹(早大政経学部在学)、である。
「日高の歩み」―日高支部創立40年史―を読む
 昭和三十七年五月に日高支部ができ、先代社長の武岡敏夫氏が初代理事長に就任、昭和四十七年に大佶社長にバトンタッチするまで日高支部長の任にあった。それからは大佶社長が今日に至るまで引き続き日高支部長である。
 「日高の歩み」(四十年史)は、「日高支部の沿革」というタイトルの項で逐年、その年の主な出来事を挙げて解説している。惜しむらくは活字が細かく、ルーペをつかって読んだが、眼を痛めてしまった。一、二を引用しておこう。
 昭和四十四年九月六日、浦河市場の混乱に対する支部長の願状発送。同九月十日、浦河市場の対策会議に支部長出席するとして、当時の新聞記事が添付されている。それによると、浦河町は日高管内一の消費と普及率が高く、十八の販売店があって互いに競い合っていた。それに元売が後ろ盾になってダンピング競争になり、ついに十`c持ち届けで三百円を割ることになった。新聞は「浦河では三百円(十`入り)に「ダンピング 町民戸惑う」と二段見出しがある。
 「日高の歩み」からもう一つ、平成五年の保安事業の記載を抜粋しておこう。
 昭和六十一年十月から全国業界が一斉に実施した安全機器普及促進運動(五千億円の投資)が所期の目標を達成して終了した。その結果は、全国平均の設置率が九五・二%、全道平均設置率九三・一%、日高支部設置率九八・六%で終了した。翌平成六年に日高支部は一〇〇%の完全設置の所期の目標を達成した、と誇らかに述べている。
 「日高の歩み」からたった二つの抜き書きだが日高支部の真摯な活動がうかがえる。
競走馬産業は親譲り
 大佶社長は筆者と同行してくれた札幌支局長の川村信君をご自分の車に乗せて武岡牧場とスタリオン・ステーションに案内してくれた。武岡牧場は「二十間道路桜並木」に沿って本場二十町歩、分場七町歩五反の広さの牧場である。この二十間道路は直線で七`bある。さくらの花が咲くころは美しいことだろう。
 現在ここにサラブレッドが十一頭いた。牧場の迎賓館に通された。
 その書棚には「The General Stud Book containing Pedigrees of Race Houses」(競走馬の血統書付馬籍簿総覧とでも訳しておこう)が年鑑になっていて何冊も並んでいる。先代の敏夫社長がよい種馬を安く手に入れるために単身イギリスに行ったとき買ってきたもので、稀覯本(きこうぼん)だそうだ。
 この一事からでも軽種馬産業への並々ならぬ入れ込み方が分かる。
 牧場やスタリオン(種牡馬のマンション)の見学を終えて大佶社長宅の応接間に呼ばれた。そこには昭和五十七年、武岡牧場の第一期全盛期にG1レースでリーゼングロスが桜花賞に輝き、そして一九九二年、第二黄金期にタケノベルベットがエリザベス女王杯、日をおかずにG2の鳴尾記念で勝って一カ月で一億三千万円を稼いだという。そのときの金杯や肩掛けを見せてくれた。
 筆者が第三黄金期が近く来ればよいと言えば、大佶社長は最近、若い人は携帯電話の料金に月々二万円かける。その半分でも競馬にまわしてくれればいいのだがと笑った。

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