日の丸産業は国旗の日の丸ブランドで馴染みの深い“日の丸練炭”がその前身で、「炭の歴史は80年」の会社である。時代と共に変革するエネルギー革命を乗り越え、今はLPガス、石油、炭をベースにした環境改善事業分野に進出して21世紀に向けて挑戦している。河尻清社長はLPガス業界の今後について「地域密着の連合体になれば本当に強い」と競合エネルギーのウイークポイントを指摘しながらLPガス業界の「団結と協調」が生き残り策だと強調する。同社は練炭の製造販売からいえば燃料商としての歴史は80年だが、LPガス事業への参入は比較的新しくその歴史は30年である。しかし、LPガスの年間販売量は1万2,000d、広島県では大手卸業者に名を連ねている。
客が客を呼ぶ
地元大手卸と共同配送、共同充填を目的に「広島ネット配送センター」「エルピーガスネット工業」の2社を立ち上げて6年余になるが、この共同事業は3万戸を突破して順調に推移している。この共同事業はバルク配送にまで進展してバルクローリー2両が稼働して80%の稼働率である。しかし、河尻社長は競合エネルギーに打ち勝ち、本当の企業体になるためには共同販売にまで行って、企業力を大きくして資本力、ネットワークを拡大しないと顧客の本当の信用は得られないと言う。
かつてマッチ1本で点火できる「日の丸練炭」は全国で認められ、特許にも守られて練炭販売業者は多額の保証金を積んで前金で仕入れる有様だった。当時これを「商品が人を呼ぶ・日の丸練炭」と言ったものだ。商品が人を呼ぶではなく、消費者が消費者を呼ぶ、すなはち人が人を呼ぶでなければならない。エネルギーの選択権は消費者にありで、個性をないがしろにして政府が使えと言って普及できるものではない。自分は広島県の600社のLPガス業者の600番目に登場した後発だが、先達の意見を聞きながら上記のような哲学でLPガス事業を推し進める。折角やるからには600番では終わらない覚悟だと言う。
無煙炭の輸入交渉で共産圏諸国に
昭和40年代になるとエネルギー革命が進展して煉炭・豆炭の需要はかなり減少した。それでも全国で年間数百万d、日の丸練炭でも10万d以上製造していた。そのころ河尻清社長は京都大学大学院化学工学科を卒業して別の道を歩んでいたが、急激に減る練炭に代わる新規事業を開発するよう創業社長の父上から要請され日の丸練炭に入社した。
昭和45年、宇部興産の山陽無煙炭が閉山して国内の無煙炭は皆無になった。原料が手に入らないことは練炭メーカーの死活問題である。そこで外国から輸入することになったが、その外国は「北ベトナム」「中国」「北朝鮮」「ソ連」とすべて共産圏である。日本練炭工業会が友好商社となり輸入交渉に当ることになった。河尻 清社長は入社したばかりだったが、日本練炭工業会の輸入担当の1人となりこれらの国に出向いた。この無煙炭輸入交渉団にはミツウロコの田島震社長、品川燃料の山本一三社長、十全商会の根本森記社長、橋本産業の橋本内匠社長等(みな当時の役職)の諸氏がいた。自分は32歳と若かったので大へん鍛えられもし、冷や汗も流した。交渉相手はどれも皆したたかだった。それでも北ベトナムから70万d輸入の最初の契約に漕ぎ付けた。トンあたり約1万円だったから70億円である。30年前の70億円は大きな取引だった。
中国の西部劇はこれから
練炭原料の無煙炭の輸入を契機に河尻社長の中国との交流は広く深くなった。それ以後、年に4、5回の中国旅行は恒例になった。とくに四川省との交流が多い。昭和59年、広島県日中親善協会が設立され、四川省と友好提携調印。河尻社長は現在も同協会の常任理事である。四川省都江堰市に現地法人を創立してお茶の輸入をしたり、四川日之丸包装産業(有)で現地のニーズに応える事業もしている。そして四川省臥龍パンダ保護センターのパンダの里親にもなって3代目の孫まで皆元気だそうだ。
河尻社長の社長室の壁には四川省西端の東チベット、海抜3,800bの巴朗山峠(パーランサン)から雪を頂いた山容を望んだ景観の写真が懸かっている。社長が撮影したものである。河尻社長は中国政府の西部開発=中国の西部劇はこれからだと言う。
木炭の新用途
創業時からの“炭の流れ”を受け継いで“炭の新用途”に備長炭・竹炭のパワーを快適生活に役立てる事業に果敢に取り組んでいる。木炭の新用途は、飲料水・炊飯に、室内・車内に、快適な睡眠に、ガーデニングに、スキンケアに、洗濯に、はたまた建築カーボンとしてコンクリート・床下・埋設・壁に混ぜればマイナスイオンが屋内に溢れて健康で快適である。興味がある読者は日の丸産業にカタログを請求したらいい。河尻社長は、この事業を「環境改善産業」と称している。
プロパン・ブタンニュース2005/2/21 ナリケンがゆく ウェーブ・風 話題と肖像画