2005(H17)年7月25日(月曜) | |
第2635号 |
総 合 面 | |||||||||||||||||||||
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エネルギー資源戦略の見直し、機構改革を決めた第一回エネ調総会(20日、東京・竹橋のKKRホテル東京で) |
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首 都 圏 版 | |||||||||||||||||||||
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プロパン・ブタンニュースがお届けする連載読み物 <業界50年・再生> |
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地 方 版 | |||||||||||||||||||||
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特集記事/<LPガス容器の人間ドッグ、容器再検査所> | |||||||||||||||||||||
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住 設 供 給 機 器 / 新 技 術 | |||||||||||||||||||||
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G H P と コ ・ ジ ェ ネ 版 | |||||||||||||||||||||
GHP版 お知らせ | GHP出荷実績 H16年度 |
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<先 週 の 日 刊 プ ロ パ ン ・ ブ タ ン 情
報> 以下の見出しは日刊プロパン・ブタン情報からのものです。 日刊プロパン・ブタン情報についてはこちらから |
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ご希望の方に見本紙をお送り致します。 プロパン・ブタンニュースは創業以来LPG業界とともに歩んでまいりました。 2004年春に石油化学新聞社創業50周年を迎えました。 創業時の基本理念に立ち戻るとともに新しい挑戦を続けて行きます。 LPガス業界で高い支持を頂いてるプロパン・ブタンニュースを読んでみませんか? e−mail もしくはファクシミリにてご連絡下さい。 fax 03-3254-8425(業務局井上あて) なお、株式会社石油化学新聞社の全国支社局でもお待ちしております。 (札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡) |
2005(H17)年 | |
7月25日(月曜) | |
第2635号 | |
PBN2005-07-25-01 岩谷産業創業者、名誉会長 岩谷直治氏死去 102歳 岩谷産業創業者で取締役名誉会長の岩谷直治(いわたに・なおじ)氏が19日午前1時50分、老衰のため、入院先の大阪府八尾市の医真会「八尾総合病院」で死去した。102歳だった。岩谷直治氏は昭和28年(1953)、50歳の時に家庭用プロパンガスの全国販売をわが国で初めて開始し、半生をかけてガス器具や供給機器、安全器具の開発・普及にも心血を注いだ。55年(1980)8月には大阪府堺市にLPG輸入基地を完成させ、翌年2月からサウジアラビアからのLPガスの直輸入を開始し、輸入から国内販売までの垂直統合を完成させ、今日、イワタニ・マルヰガスグループを290万のLPガス需要家を有する日本最強のLPガス集団に育て上げた。 PBN2005-07-25-02 家庭用プロパン全国網築く 需要開発、安全対策もリード 岩谷直治氏は明治36年(1903)3月7日、島根県安濃郡(現大田市)長久町に生まれた。大正7年(1918)3月、15歳の時に故郷を離れて神戸市の楫野海陸運送店に見習い奉公をして、初めて酸素と出会った。昭和5年(1930)5月には大阪市港区浜通りに岩谷直治商店を開業して関西最大の酸素・溶材商に成長し、20年(1945)2月には現在の岩谷産業を設立した。 「世の中に必要なものは栄える」を信条とした岩谷氏は27年(1952)、富山で開かれた高圧ガス業界団体の年次総会に出席した折、ヨーロッパ視察から帰国した業界関係者から「イタリアではガスを液化してボンベに詰めて売っているガスの缶詰(プロパンガス)」のエピソードを聞いたことをきっかけに、翌年から「主婦をかまどの煤から解放する」と言って、家庭用燃料としてプロパンガスを初めて全国発売した。 販売に当たっては「昏々と湧き出る泉」を意味する「マルヰ」を冠にした「マルヰプロパン」のブランドを考案、商標登録し、全国各地で自動車キャラバンを展開して薪炭業者や金物店、米穀店など1軒1軒の販売店づくりを全国各地で進め、資金調達が困難であった時代に協同組合方式も採用して小売店を育成し、燃料革命を成し遂げた。 33年(1958)には関西テレビにコマーシャルの提供を開始し、女優の浜木綿子さんをイメージキャラクターに起用して多種多彩な広告宣伝活動でも業界をリードした。 LPガス需要開発面では、LPガス先進国の米国やヨーロッパ諸国から業務用を含むガス器具の輸入販売を行ったほか、44年(1969)12月には「ホースのいらないこんろ」(カセットこんろとボンベ)を発案し、「カセットフー」の名称で売り出して、瞬く間にミリオンセラーに仕上げた。 同時に安全対策にも気を配り、同じ44年2月にはガス漏れ警報器「みはり」の販売、普及を開始して事故の未然防止でも先駆的役割を果たした。 販売会社の創設にも力を入れ、私費を投じた日本瓦斯(昭和30年)、シェル石油と合弁で設立したセントラル石油瓦斯(34年)、日本鉱業・伊藤忠商事と共同出資した日鉱液化ガス(39年)、石油公団・昭和シェル石油・コスモ石油ガスと共同出資した鹿島液化ガス共同備蓄(平成3年)など販売会社、輸入基地運営会社など多くのLPガス関連企業の設立に参画した。 昭和50年代からは「水素の時代」を強調し、水素プラントの建設や水素自動車を開発する傍ら、61年(1986)8月、液体水素の供給を通じて宇宙開発事業団のH−1ロケットの打ち上げ成功にも貢献した。48年(1973)に自己資金30億円で設立した「岩谷直治記念財団」を通じて技術研究費の助成制度、62年(1987)に開始したNHK交響楽団との事業協力など、文化・社会貢献活動にも熱心であった。 PBN2005-07-25-03 エネルギー戦略再構築へ 「安定供給」に比重 経済省 基本計画改定の柱に わが国のエネルギー政策が「安定供給」に比重を移すことになった。20日に開かれた経済産業相の諮問機関、総合資源エネルギー調査会(会長=千速晃・新日鉄会長、委員28人)の第1回総会で、経済産業省は今後のエネルギー政策について、エネルギー政策基本法の本来の姿といえる「安定供給の確保」を最重視する観点からの見直し案を示し、委員の幅広い賛同を得た。 具体的には平成15年10月に策定した「エネルギー基本計画」が3年を経過するため、来年秋の改定に向けて見直し作業を行うにあたって「エネルギー資源確保戦略の再構築」を大きな議題としていく。 現行のわが国エネルギー政策はエネルギー起源のCO2など温室効果ガスの削減を進めるための京都議定書の目標達成を軸に、「環境適合」にややウエートがかかっている。しかし、世界のエネルギー需給構造が原油をはじめ、天然ガス、非鉄金属にも逼迫観が及び、国家間の資源争奪戦が激しく繰り広げられている。 そのため、わが国としてエネルギー資源の安定供給確保を強力に進める必要が出てきた。 PBN2005-07-25-04 岩谷直治さん安らかに プロパン業界の恩人 石油化学新聞社相談役 成冨健一郎 岩谷直治会長とプロパン事始 岩谷直治会長はプロパン業界の恩人である。「最初に井戸を掘った人の恩を忘れるな」とは中国の諺だそうだが、いま岩谷直治会長の事業を顧みてその感を深くする。 昭和27年、岩谷会長はプロパンガスの存在を初めて知った。富山市で開かれた高圧ガスの業界団体の年次総会で欧州から帰国したばかりの日産化学の工場長が液化ガスの講演をした。その講演で「ガスの缶詰」の話にいたく刺激を受け、持ち前の行動力でイタリアをはじめ欧州へLPG視察に旅立った。帰国するや帝国石油が秋田八橋油田で製造しているプロパンに着目、主として自動車燃料として販売されていたものを家庭用への転用を促し、45`容器で引き取り10`容器に詰め替え、こんろと共に一般家庭に売り込む作戦にでたのである。手始めに関西地区の有馬温泉や城崎温泉の旅館の厨房用をターゲットにした。次に郷里の島根県で薪炭商を営む親戚に第1号特約店を引き受けてもらい、この地域に十数軒の販売店ができた。こんな活動が半年も続いた。言わばケーススタディーである。松江に続いて四日市、高松、岡山、神戸とプロパン中心の営業所を開設、これを拠点に特約店を募った。 昭和30年には西日本に特約店が54店となった。「やくも号」と「いづも号」と名付けた宣伝カーが車体に「マルヰプロパン」と大書して全国を駆け巡ったのもこのころである。 普及のテンポを速め、プロパン販売をより確固たるものにするために岩谷会長は4つの基本方針を打ち出した。@安定供給を図るために仕入れ先の確保と貯蔵基地の整備A大量輸送手段としてタンクローリーを活用し、岩谷と特約店と直結して中間マージンを排除するBプロパン販売の根幹であるボンベは特約店の所有とするC保安の徹底の4原則である。これらを実現するためには多大な投資が必要である。経理部長に銀行を駆け回って借りられるだけ借りて来いとゲキをとばした。 岩谷直治とLPガス法制定 LPガス法は昭和42年12月に成立したが、初めに示された法案では、「一般の需要に応じ、導管によりLPガスを販売する事業を除く」と規定されていた。それまでLPガス事業者がやった小規模導管供給が規制されていた。 これに対し全国LPガス協会連合会(岩谷直治会長)と全国プロパンガス販売商工組合連合会(田村祐一会長)のリーダーシップで反対運動を展開した。 この結果、昭和43年ガス事業法が改正されプロパン業界でも70軒以上の導管供給が簡易ガス事業として法的にオーソライズされた。それと共にプロパンそのものが確固たる地位を得たのである。 産ガス国から直接輸入 昭和55年8月27日、堺LPGターミナルの竣工式が行われた。岩谷産業が産ガス国と独自に契約したLPGをこのターミナルの低温タンクに貯蔵したのは56年1月だった。産ガス国と直接契約して自分のタンカーで国内輸入基地に運び、それを国内139カ所の充填工場を経由してマルヰ会1,800社を中心とする販売チャンネルを通じてエンドユーザーに届けることになった。 ここにおいて輸入から国内販売の一貫体制を整えたのである。堺LPGターミナルは貯蔵能力8万d、建設費130億円だった。 さしも剛毅な岩谷直治会長も「われながらよくやった」と涙があふれたと言う。 昭和39年に日鉱液化ガスが設立された。同社とガルフカナダ社とのLPガス輸入契約は、年間23万d、契約期間10年というものであった。そして岩谷の引き取り比率は50%であった。これに伴って水島基地、プロパン冷凍タンク2万d3基、高圧タンク750d4基、海上受け入れ設備、陸海出荷設備その他で所用資金18億円を投じて41年2月に完成した。 平成6年には鹿島液化ガス共同備蓄基地の創業開始、自社タンカー「パシフィック・センチュリー号」(4万4,493d)の就航はLPガスの一貫販売体制を集大成させたのである。 岩谷会長は筆者にとっても恩人 プロパン・ブタンニュースを創刊したのは昭和30年2月だった。マルヰプロパンの宣伝カー「いづも号」「やくも号」が全国を駆け巡っているときだった。誕生して間もないプロパン業界に呱々の声をあげた業界新聞を岩谷直治会長は大事にしてくれた。 創業して間もない新聞社のこととて年の暮れに社員に支払う餅代の資金繰りに苦しんでいた。こちらがおねだりしたわけでもないのに筆者は余ほど困り果てた表情を見せたのかも知れない。岩谷会長は個人的に株式投資で得た利益であると言って新聞社の経営に役立てなさいと大枚を下さった。頂いた金子を鞄にしまうのをご覧になって落すんじゃないぞと仰った温顔を今でもあり難く思い出す。 また、筆者がゴルフに打ち興じていることをご存じで、ゴルフをするなとは言わぬ。するなら三和銀行の頭取とか社長とおやんなさい。仲間うちだけでしているのはいかがなものかと窘(たしな)められたときは身のすくむ思いだった。 阪神大震災の余震もさめやらぬ平成7年3月3日、直治会長をお訪ねしてお天気もいいので道頓堀まで出てもらった。道頓堀の橋の袂に立つ会長を写真撮影したかったのである。 初めは、昭和5年に岩谷直治商店が開業した港区市岡浜通りもいいなと思った。昭和20年の空襲で何度も店を焼かれて、終戦を迎えることになった東区平野町の生駒時計店のビルの前に立ってもらうのも一案と考えたが、大阪の代表的な賑やかな街、道頓堀での撮影にした。 人々の行き交う雑踏の中で、ここは男だけで来る所ではない、綺麗どころと一緒でなくては、と仰った。だが、語を継いで気を付けなはれや、遊びに現(うつつ)をぬかしてどれほどの実業家が事業に失敗したことかと付け加えた。 これを聞きながらこの年の正月に会長が色紙に書かれた「自戒」の文字を思い浮かべた。 空襲で店を焼失しても1日も休業しなかった 昭和20年3月、「一三ヒ イチオカハマコ シス スグカエレ」という電報を受け取ったのは岩谷直治商店の上海の拠点となっていた「金生洋行」でだった。岩谷直治商店を内から支えた奥さんが打ったこの電報は、13日の大阪空襲で市岡の店舗も倉庫も焼失したことを知らせたものである。急ぎ帰国した直治会長は店舗を境川、高麗橋と移したが、再び空襲で焼失、前記の平野町の生駒ビルの1階と地下室を借りて酸素、カーバイド等の営業を続けた。 終戦まで、そしてその後も1日たりとも商売を休まなかった。社員で戦争に行ったものが7、8人いた。復員して来ても帰る所がなければ困るだろうから大阪で店を続けると郷里の母への手紙に書いている。道頓堀川の流れに目をやり、行き交う人々の波を見やって岩谷会長の脳裏を去来するものは、いたずらに感傷に耽るものではなく、事業の将来を見とどける厳しい目であり、見果てぬ夢への熱い思いであったに違いない。あれから10年が経たが、その時の情景と会長のお顔がありありと目に浮かぶ。 恩に報いねばならない 岩谷直治名誉会長はプロパン業界の恩人である、と本稿の冒頭に記した。そして筆者自身は会長がなさった事業の恩恵の下に日々仕事をし、糧(かて)を得ている。その仕事は業界の大小の出来事を報道し、言論をもって業界の発展を期することにある。複雑な事態を誤りなく判断し、報道するために会長の事跡から厚い志を学び取らねばならない。そうすることがご恩に報いる道だと思う。大阪の千里會館での葬儀に列しての短歌一首。 横笛(おうてき)に 笙(しょう)・篳篥(ひちりき)は 昇天(しょうてん)の 深き憩(いこい)を 奏(かな)でけるかも PBN2005-07-25-05 オールジャパンGライン発足へ 10月にも新組織電化対抗に一丸 LPガス、簡易ガス、都市ガス関係団体が一堂に会しガス体エネルギー全体の普及促進をめざす、オールジャパンGラインとも言える組織を設立する動きが加速してきた。関係諸団体は次々に了承する機関決定をしており、LPガス関係では、6日開催の日本LPガス団体協議会会長サミットでも基本的合意が得られた。激化する一方の電化攻勢に対し、一丸となって対抗する狙いだ。 設立予定の組織は「日本ガス体エネルギー普及促進協議会」。日本LPガス団体協議会、日本簡易ガス協会、日本ガス協会で構成する。関係者は今秋設立に向けて活動しており、10月設立が有力だ。重要事項を決定する総会、総会決定事項を実施する幹事会、運営全般を担う事務局なども設ける予定。協議会は政策提言、情報発信、普及啓蒙活動などを行う。 PBN2005-07-25-06 LPガス容器の人間ドック 容器再検査所 LPガス容器再検査業界は流通の効率化、再検査期限の延長、そしてバルク供給の急速な普及により、厳しい経営環境にさらされている。しかし、それが保安レベルの低下を招くようなことがあってはならない。容器の安全・安心はLPガス保安の要であり、そのためには適正検査の維持・向上が大前提となる。LPガス容器再検査業界はこのため、集約化などによる経営改革や、検査の質的向上、顧客ニーズへの対応を通じた生き残りに向け、血のにじむ努力を続けている。LPガス容器再検査業界の現状を探るとともに、有力検査所の取り組みをクローズアップする。 PBN2005-07-25-07 エコウィル 月間58立方メートルを消費 大丸エナウィン伊藤社長宅実績 ガス増販の力に 大丸エナウィン(本社・大阪市)の伊藤吉朝社長は、「エネルギー変換効率が85%と高く、環境にも優しい商品をアピールしていく必要がある」として、昨年2月から自宅にエコウィルを設置した。今年6月末までの総発電量は、2,120kw、LPガス使用量は、983立方m(月間平均58立方m)になっている。昨年はエコウィルの知名度をアップする目的もあって26台を販売した。今年は、エコウィル50台、5kwマイクロコージェネ5台の販売目標で取り組んでいる。今年は特に直売に力を入れ、6月末現在で商談中を含めエコウィル20台の内19台が直売先になっており、本来の目的であるガスの増販に結びついてきた。 PBN2005-07-25-08 新日石のLPガス燃料電池 冒険家・風間深志さん宅に 新日本石油は12日、LPガス仕様家庭用燃料電池「ENEOS ECO LP−1」(定格出力750w、貯湯槽200リットル)を冒険家、風間深志さんの山梨県笛吹市の自宅に設置完了し、システムの稼働が開始した。これで著名人宅でのLPガス燃料電池稼働は女優の高樹沙耶さん、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん、エッセイストの玉村豊男さんに続いて4例目。 風間さんは山梨県出身。バイクによる史上初の北極、南極点の到達に成功し、現在、講演やテレビ出演、アウトドア活動など多方面で活躍している。風間さんは燃料電池の稼働に当たって「山梨県は環境に関心が高い地域。その一つのの具体的な答えとして、今回の設置を皆さんに注目していただければと思います」とのコメントを発表した。 LPガス燃料電池は風間さん宅の電気の約60%、お湯のほぼ全量を賄う予定。 |