誠を以って、人に接せよ | ||
エナジー・ワン社長 |
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髙須賀英人氏 | ||
ウエーブ・風 話題と肖像画/ナリケンがゆく <189> |
熟田津(にぎたつ)に 船(ふな)乗(の)りせむと 月待てば 潮もかなひぬ今は榜(こ)ぎ出(いで)な。万葉集卷一にある額田王(ぬかたのおおきみ)の歌である。齊明天皇が新羅を討たんと行幸された途中、伊豫の熟田津に御滞在になった。その時お伴をした額田王が詠んだ歌である。 熟田津という港は現在どこかというと、松山市に近い三津浜だろうと言われてきたが、今ではもっと道後温泉に近い山寄りの地で、現在はもはや海ではない。一首の意味は、伊豫の熟田津で御船が進発しようと、月を待っていると、いよいよ月も明月となり、潮も満ちて船出するのに好都合になった。さあ榜ぎ出そう、という歌である。 エナジー・ワンの髙須賀英人(ひでひと)社長を松山市大可賀の同社本社に訪ねた。ここ本社には隣接するコスモ松山石油の巨大なタンクからパイプラインで直結した新工場が併設されている。LPガス月間1,200㌧の充填ができる充填設備や月間2,000本の処理能力がある最新鋭の容器検査設備が稼働していた。 これらを見学してから社長が語る会社の現状、経営理念に耳を傾けていたら額田王の歌が頭を過ぎった。 髙須賀社長の事業も今や月は明月、潮は満ち、航路は順風満帆、よき船出の時だと思い合わせた。 エナジー・ワンの今 エナジー・ワンの年商は14億円、うち12億円がLPガス部門の卸、直売、器具販売を含む売上高である。直売軒数は1万軒である。昨年は電化攻勢で30軒とられた。おじいさん、おばあさんの家庭が子供さんの家に引き取られるケースなどの自然減もあるが、1年間に新規が500軒ほど増えた。松山市内の都市ガスの普及率は約50%だが、いくらか取られたものもあるが、四国ガスは天然ガス転換で8月から7%の料金値上げになる。熱変で高くなる現象が起きている。都市ガスからLPガスに替わるものが出て健闘している。 リフォームに力を入れ、水まわり、塗装、空調、マンションの改装、カーポート建設等この1年間で130件、7,000万円を売り上げた。リフォーム需要を通じて電化に対応できるのがよい。リフォームはLPガス事業と相乗効果をもたらしている。 ガラストップ、エコジョーズ、ファンヒーター等も販売目標を決めて普及に努めた。ガラストップは、この5、6、7月の3カ月で目標の45台を達成したが、エコジョーズは難しかった。ファンヒーターはワンシーズンで100台を超えたときもあったが、昨冬は50台にとどまった。 社員にあれもこれもと多くを要求し過ぎた。一番大事なものは何かを決めて重点をしぼることが大切だと反省している。 熟田津(にぎたつ)に 船(ふな)乗(の)りせむと 月待てば 潮もかなひぬ今は榜(こ)ぎ出(いで)な。万葉集卷一にある額田王(ぬかたのおおきみ)の歌である。齊明天皇が新羅を討たんと行幸された途中、伊豫の熟田津に御滞在になった。その時お伴をした額田王が詠んだ歌である。 熟田津という港は現在どこかというと、松山市に近い三津浜だろうと言われてきたが、今ではもっと道後温泉に近い山寄りの地で、現在はもはや海ではない。一首の意味は、伊豫の熟田津で御船が進発しようと、月を待っていると、いよいよ月も明月となり、潮も満ちて船出するのに好都合になった。さあ榜ぎ出そう、という歌である。 エナジー・ワンの髙須賀英人(ひでひと)社長を松山市大可賀の同社本社に訪ねた。ここ本社には隣接するコスモ松山石油の巨大なタンクからパイプラインで直結した新工場が併設されている。LPガス月間1,200㌧の充填ができる充填設備や月間2,000本の処理能力がある最新鋭の容器検査設備が稼働していた。 これらを見学してから社長が語る会社の現状、経営理念に耳を傾けていたら額田王の歌が頭を過ぎった。 髙須賀社長の事業も今や月は明月、潮は満ち、航路は順風満帆、よき船出の時だと思い合わせた。 エナジー・ワンの今 エナジー・ワンの年商は14億円、うち12億円がLPガス部門の卸、直売、器具販売を含む売上高である。直売軒数は1万軒である。昨年は電化攻勢で30軒とられた。おじいさん、おばあさんの家庭が子供さんの家に引き取られるケースなどの自然減もあるが、1年間に新規が500軒ほど増えた。松山市内の都市ガスの普及率は約50%だが、いくらか取られたものもあるが、四国ガスは天然ガス転換で8月から7%の料金値上げになる。熱変で高くなる現象が起きている。都市ガスからLPガスに替わるものが出て健闘している。 リフォームに力を入れ、水まわり、塗装、空調、マンションの改装、カーポート建設等この1年間で130件、7,000万円を売り上げた。リフォーム需要を通じて電化に対応できるのがよい。リフォームはLPガス事業と相乗効果をもたらしている。 ガラストップ、エコジョーズ、ファンヒーター等も販売目標を決めて普及に努めた。ガラストップは、この5、6、7月の3カ月で目標の45台を達成したが、エコジョーズは難しかった。ファンヒーターはワンシーズンで100台を超えたときもあったが、昨冬は50台にとどまった。 社員にあれもこれもと多くを要求し過ぎた。一番大事なものは何かを決めて重点をしぼることが大切だと反省している。 創業者・髙須賀太郎さんの事績 髙須賀英人社長は、二代目社長である。お父さんの髙須賀太郎さんが昭和24年に伊豫酸素商会を設立して酸素、カーバイド、溶剤の販売を開始した。そして29年にプロパンガスの販売を始めた。これによって伊豫酸素グループは酸素とLPガスの2大事業部門を持った。昭和29年という年は、わが国のエネルギーの太宗が石炭から石油に転換した時である。「炭主油従」から「油主炭従」になったのである。敗戦で製造が禁止されていた太平洋岸の近代的製油所から石油製品の生産、出荷が始まった年である。後の史家がエネルギー革命と称して論じた大きな転換だった。このような歴史的転換の時に社長のお父さんの髙須賀太郎さんは、酸素とLPガスを商材として事業の基礎を築いたのである。 髙須賀太郎さんは戦前から戦後の若き日、伊豫酸素を始めるまで旧丸善石油松山製油所の職員だった。購買課の職員で資材・物資の調達に従事した。戦時、製油所がB29の空襲に曝されたとき太郎さんは夜中であろうが製油所に駆けつけて消火に当たった。戦後にたくさんの社員が人員整理に遭遇した。わずかに残す社員を誰にするかを決めるのに丸善石油は空襲の時に工場に駆けつけた回数を規準とした。かくて数少ない残留組に選ばれたという。これは一例に過ぎないが、その人柄と仕事での付き合い方で卑屈にならない態度が上司にも好感を持たれたようだ。 この間の事情は、愛媛県LPガス協会の機関紙「月刊・愛媛県LPガス情報」の昭和55年1月号から13回にわたって毎月欠かさず連載された「私の半生」と題して髙須賀太郎さんが乞われて書いた寄稿記事は掬すべきところが多い読みものである。ここに書き添えておくが、髙須賀太郎さんは昭和31年6月4日に任意団体の愛媛県プロパン協会を設立、同42年4月まで11年間、協会長を務めた。 髙須賀太郎さんは、旧丸善石油では物資を調達する業務に携ったが、戦後は独立して酸素やLPガスを販売する側になった。そして昭和57年6月、61歳で他界された。二代目社長には現社長の英人社長が就任した。 引き継がれた創業者の理念 「私の半生」の最終回の末尾に筆を置くにあたって、私の座右銘を記すとして「誠を以って、人に接せよ」とある。英人社長は「親父のこの教えが無かったら自分はわが社をあるいは別の方向に持って行ったかも知れない。親父がやって来たことを引き継いでやって行くだけだ」と対談を結んだ。 髙須賀英人社長は、二代目社長である。お父さんの髙須賀太郎さんが昭和24年に伊豫酸素商会を設立して酸素、カーバイド、溶剤の販売を開始した。そして29年にプロパンガスの販売を始めた。これによって伊豫酸素グループは酸素とLPガスの2大事業部門を持った。昭和29年という年は、わが国のエネルギーの太宗が石炭から石油に転換した時である。「炭主油従」から「油主炭従」になったのである。敗戦で製造が禁止されていた太平洋岸の近代的製油所から石油製品の生産、出荷が始まった年である。後の史家がエネルギー革命と称して論じた大きな転換だった。このような歴史的転換の時に社長のお父さんの髙須賀太郎さんは、酸素とLPガスを商材として事業の基礎を築いたのである。 髙須賀太郎さんは戦前から戦後の若き日、伊豫酸素を始めるまで旧丸善石油松山製油所の職員だった。購買課の職員で資材・物資の調達に従事した。戦時、製油所がB29の空襲に曝されたとき太郎さんは夜中であろうが製油所に駆けつけて消火に当たった。戦後にたくさんの社員が人員整理に遭遇した。わずかに残す社員を誰にするかを決めるのに丸善石油は空襲の時に工場に駆けつけた回数を規準とした。かくて数少ない残留組に選ばれたという。これは一例に過ぎないが、その人柄と仕事での付き合い方で卑屈にならない態度が上司にも好感を持たれたようだ。 この間の事情は、愛媛県LPガス協会の機関紙「月刊・愛媛県LPガス情報」の昭和55年1月号から13回にわたって毎月欠かさず連載された「私の半生」と題して髙須賀太郎さんが乞われて書いた寄稿記事は掬すべきところが多い読みものである。ここに書き添えておくが、髙須賀太郎さんは昭和31年6月4日に任意団体の愛媛県プロパン協会を設立、同42年4月まで11年間、協会長を務めた。 髙須賀太郎さんは、旧丸善石油では物資を調達する業務に携ったが、戦後は独立して酸素やLPガスを販売する側になった。そして昭和57年6月、61歳で他界された。二代目社長には現社長の英人社長が就任した。 引き継がれた創業者の理念 「私の半生」の最終回の末尾に筆を置くにあたって、私の座右銘を記すとして「誠を以って、人に接せよ」とある。英人社長は「親父のこの教えが無かったら自分はわが社をあるいは別の方向に持って行ったかも知れない。親父がやって来たことを引き継いでやって行くだけだ」と対談を結んだ。 |
プロパン・ブタンニュース/石油化学新聞社(C)