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(2003/3/31 プロパン・ブタンニュース)

大陽東洋酸素 社長
於勢好之輔氏
企業は生きもの、油断は禁物

 於勢好之輔会長は昭和25年に大陽酸素に入社した。そのとき社員は19人だった。海軍兵学校出など海軍関係者が多く、陸士出身者も一人いた。あれから53年になる。隔世の感があると往時を振り返る。
 昭和28年にはアセチレンビジネスを展開した。全国のアセチレン生産量の頂点は昭和45年の年間6万4千889トンだが、これは昭和27年ベースの約32倍である。造船工業の発展を背景にアセチレン需要が伸張する曙光を捉えて川口源兵衛会長(当時・専務)は動いたのである。
 於勢さんは大阪から尼崎まで自転車で往復して切り込み営業をした。毎朝、川口会長はどこどこへ行くかと訊ねる。くたくたになって帰ると、どこへ行ってどんな話しをしたか、そして結果と見通しは−−。
 毎日、正確に報告しなくてはならないから油断なく目配りして行動する癖がついた。
 かくてわが社の溶解アセチレン製造工場は、昭和35年までに尼崎、川口、黒崎、呉、名古屋と全国六工場を相次いで新設した。
 於勢さんは川口工場開設の時には大田区など工場街を自転車で巡回して綿密な需要家地図を作ったし、黒崎工場開設時にも八幡、戸畑の工場街を自転車で走り回って同様の需要家地図を作って、他社より低コストを旗印に営業した。
 アセチレンはやがてプロパンに代わる。この鋭い洞察を持った川口専務(当時)は昭和29年9月、丸善石油と契約して丸善石油のLPG特約店第1号となった。
丸善から三菱にガスソース転換
 丸善石油は昭和30年3月、同社下津精油所のFCC装置が完成、これを機にLPG販売を計画した。大陽酸素のLPG事業は絶好のタイミングで始められた。丸善石油は精油所から販売店や消費者に届ける中継的貯蔵、充填「基地」が大阪になかった。大陽酸素は自社のストレージタンク設備を丸善石油のプロパン充填センターとしてひろく活用することを提唱し、その名も「丸善石油大阪基地」とした。「基地」という名称は今でこそ一般的になっているが、この時が嚆矢である。30年以降LPG業界は凄まじい発展を遂げたが、丸善石油の一府県一特約店主義と高い仕切り値は、自主的な判断で事業を発展させてきた大陽酸素には相入れないものがあった。丸善石油のシステムでは全国展開は到底無理だと考えた。折りしも昭和33年、三菱油化が四日市工場でエチレン生産に副生するLPGの商品化計画があることを知った。直ちに交渉に入り、翌34年4月には尼崎工場に併設した新しいストレージタンクに三菱油化四日市工場からのLPGが初入荷したのである。丸善から油化にガスソースを変えたとき、於勢さんは川口社長(当時)の判断に間違いはないと確信したと言う。
地域密着の分社化
 平成13年3月の決算では売上高が837億8千6百万円、これは単体であるが、連結決算だと1400億円になる。うちLPG部門は215億1500万円(構成比25%)である。連結の会社は100社ほどあるが、LPG関係では30社である。最近、この30社のうち10社が統合、再編した。14年4月にイトウ大陽ガス(株)、鈴鹿大陽ガス(株)、名古屋大陽ガス(株)がサーンガス中部(株)として統合、14年10月に(株)太陽と(株)やまひろがサーンガス神奈川(株)として統合、15年4月には神陽ガス(株)、豊前大陽ガス(株)、大陽ガスセンター(株)、(株)大陽液化ガス、佐世保大陽ガス(株)の5社がサーンガス九州(株)として統合の予定である。また、大きなところでは14年11月から山川産業が(株)サーンテック山川として発足、15年1月には日合アセチレン(株)が(株)サーンガスニチゴーに社名変更した。
 (注)マーケッティング呼称のSaaNは、平成3年にCI委員会で決めたもので、太陽を表すSun、空気のAir、水のAqua、そして願いを表すNeedsの四文字を集めて、それを「サーン」と発音する。その響きに酸素と太陽、そして「燦さん」と言う輝きがふくまれている。「ガスは生命なり(大陽酸素半世紀のあゆみ)251ページ」
 於勢さんはこれを地域密着の分社化だと言う。そして年間32万トンのLPGを、グループ会社を入れれば40万トンのLPGを販売しているが、地域ごとにまだまだ集約せねばならない。
 プロパンの商売は冬に儲けて夏に損をすると言われたものだが、うかうかしていると四季を通じて損をすることになる。今年、来年は生きられても5年先、6年先はどうなるか、と警鐘を打ち鳴らし、企業は生きもの、絶えず動きを作れと於勢さんはインタビューを結んだ。

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