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(2004/2/16プロパン・ブタンニュース)

ケーイージー社長
須田泰治氏
経営の改革者にして教育者

  ケーイージーは、昭和四十五年に京葉ガスと高萩炭砿の販売会社・南悠商社の折半出資で京葉ガスのLPガス部門を引き継いで京葉液化ガスとして発足した。現社長・須田泰治氏は平成三年に社長に就任した。四代目の社長である。平成二年に社名をケーイージーと改めた。
 社長就任時には需要家件数は三万件だったが、平成十二年にブランド名を“かもめガス”として着々と伸ばし現在、消費者数五万件強となった。五万件強のうち三万七千件が千葉県、一万三千件強が茨城県である。供給区域に充填所三カ所、営業所十三カ所、バルク貯槽は千七百カ所に設置、二・三トンバルクローリー七台が稼働している。GHPは、累積四千馬力強を設置、昨年単年度で九百八十馬力を販売した。かくて昨年度のLPガス販売量は前年比千三百d増の二万六千八百トンである。
 特記すべきは平成十三年十月から始めた「消費者から選択される企業を目指す経営効率化三カ年計画」である。今年はそのファイナルステージである。このところ、業界の心ある経営者とくに若手経営者がケーイージーの事業展開を見聞しようと須田社長を訪ねる人が多い。
若き日の須田社長―エネルギー革命を体験
 須田泰治社長は昭和三十七年から四十二年の五年間、十九歳から二十四歳の多感な青年期に高萩炭砿の社長であり、京葉ガスの社長でもあった菊池寛實氏(注1)の「大心塾」の塾生として氏の身近で薫陶をうけた。そのころ理解できなかったことがケーイージーの社長になって十三年経った今、このことを言っていたのだと理解できるようになったという。
 (注1)菊池寛實氏は明治十八年、栃木県馬頭町生まれ、石炭王の異名がある。若くして足尾鉱毒事件の「義人・田中正造」に感化をうけ、また国際労働運動の指導者・片山潜と親交もあった異色の実業家である。
 須田さんは当時を述懐して銀座通りは松屋も日劇も軒並み粉炭による暖房だった。日劇に石炭を配達したとき、裏から上がって観ていけよと言われてオペラを見たこともあった。このようにエネルギーが石炭から石油そしてガスに移行する様を実際に見てきた須田さんである。橋本産業の橋本内匠会長(故人)に「南悠(注2)の須田君か」と言われたものだ。
 (注2)南悠商社は昭和二十四年に配炭公団が廃止になったときに高萩炭砿は営業部門を分離して南悠商社を設立した。
 須田さんはこのような経験を顧みて、石炭はエネルギー間の競争でコストで負けたのだ。今、われわれLPガス業者はしっかりしたスタンスで商売を考え、対電気との闘いでも決してマイナーな立場に陥るものではない。お客さんに択んでもらえる“かもめガス”にするための「経営効率化・健全化三カ年計画」は、いよいよ佳境に差し掛かっていると強調する。その一端を同社のコールセンターの業務に見てみよう。
テレマーケティングで営業の標準化
 ケーイージーは千葉県と茨城県の供給エリアに三つの充填所と十三の営業所をおき、営業展開を図っている。お客さまを中心とするサービスを強化するなか、電話の受け応えが統一されていないことに気付き業務改善に着手した。第一にテレマーケティング事業の着手であり、地域担当者(一人で担当エリアのお客さまを受け持つ制度)の配置である。営業所によって営業が得意なところ、保安活動に長じているところと区々なるものがある。これをテレマーケティングセンターと事務センターの活用によって業務内容を標準化し、地域担当者の教育(作業やお客さま対応の標準化)を向上させている。既に茨城支社の第一〜第四営業所がこれを実施して好結果を出している。テレマーケティングセンターは「かもめガスお客さまセンター」と銘打って関東経済産業局の認定保安機関の資格も取得し、有資格者を含め十数人が電話応対している。インバウンド(受信サービス)は直ちに地域担当者の携帯電話に指示が発せられる。ガス漏れが生じた場合は応急手当を指示して、関東エンジと称する二人一組で保安業務を行う組織が万全の対応をする。
 アウトバウンド(発信サービス)の一例をあげよう。比較的コールが少ない午後の時間帯を利用してガス器具の説明や新商品の紹介、販売先への御礼コールでまたお客さんとの繋がりが増す。
 ケーイージーは子会社にテレマーケティング業のフジコム(須田泰治社長)を持ち、前述のようにこれによって昨年八月から茨城支社を皮切りに「かもめガスお客さまセンター」の業務を始めた。事務センターは目下のところ売り上げデータや請求事務、販売データ管理等を一元的に行っているが、三年もすればお客さまの家族構成などデータベースが完成する。このようにして「経営効率化・健全化三カ年計画」の中で、料金メニューの低減、テレマーケティングの活用による営業活動のフォロー、ローコスト経営への挑戦、そして地域担当者の教育に成果をあげている。
菊池寛實翁遺訓
 須田社長は「菊池寛實 遺訓」という小冊子を下さった。その序文に〈菊池寛實翁は、太平洋戦争の戦前・戦後に実業界で活躍、日本の将来の発展に命を燃やし(中略)「昭和の国士」と称された。邸宅には常に十数名の書生が勤務しつつ学び、翁は自らの体験に照らして時に厳しく、時に優しく説いて一緒に生活された〉とある。
 須田社長はこの石炭王の教えを今に生かしている経営者であり、教育者でもある。


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