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(2004/3/15プロパン・ブタンニュース)

日本ガス興業会長
遠藤里美氏
「常に現場」が中小企業の精神

  日本ガス興業の遠藤里美会長は、こう強調する。LPガスが家庭用エネルギーの主流になれるか、そうなるためにはどうしたらいいか。若いときからこればかりを考え、悩みもした。家庭用エネルギーである以上、東京ガスや東京電力と対抗するだけの知識と技術がなければならない。そして膨大な消費を創出しなければならない。膨大な消費があれば、製造は大型の設備投資と合理化が進む。これと最終消費者とを結ぶのが自分たち流通業者なのだから消費拡大こそが最優先課題と考えた。これは今日なお変わることのないわれわれの原則である。
 遠藤さんは昭和三十年三月に沼津市でLPガス販売を始めた。この年の初めに日本石油ガスが創立され、それに引き続き大協石油、丸善石油などがLPガスの生産・販売計画を発表した。その頃のLPガスの月間販売量は一万dに満たなかった。LPガスの黎明期だった。若き経営者・遠藤さんは、いかにして大きな消費者層を掴むかを日夜考えて奮闘した。そして、昭和三十二年に大きな山に逢着した。沼津市大岡にできた矢崎総業の工場と同社員住宅への集団供給に取り組んだのである。この矢崎総業の採用が無かったら今日の日本ガス興業はないだろうと言うほど同社にとって大事業だった。そしてもう一つの大きなできごとは昭和五十年のメーター法制化である。プロパンがボトル販売に終始していたら今日の繁栄は無かったと言う。
わが国初の集団大量供給
 昭和三十二年、沼津市の北側の富士山側、大岡の辺りは、戦争中は軍の電波探知機などの工場があった処で、貨物の引込線はあるが、東海道線を横ぎるには多大の予算を計上しなければならなかった。都市ガスの静岡ガスは東海道線を横断する導管を引けないでいた。そこに矢崎総業の電線製造の一貫工場が進出した。溶融→インゴット→伸線→被覆→裁断→付属品を付けてワイヤーファーネスなどを作るのである。そのトーマス炉はガス炉である。これに着目した遠藤は、断られても断られても矢崎通いをした。仕入れ先である日石ガスの南野次郎常務に来てもらってLPGの納入にこぎつけた。かくて昭和三十二年十一月、同社工場と社宅四十数戸に二段減圧で、わが国初の集団大量供給に成功したのである。
佐吉翁の中小企業精神
 遠藤さんとの対談は教訓に富み、たちまちに時間が過ぎ去るのを忘れるほどであったが、矢崎総業の創業者・矢崎貞美社長を語ったくだりは書きとめておきたい。矢崎貞美氏は信州諏訪の人で、若いとき東京・日本橋の森田商会に奉公していた。自動車用の組電線を作ってトヨタ自動車の挙母(ころも)工場に売りに行った。貞美氏が自動車の下にもぐって作業をしていると、工場を見回って来た豊田佐吉翁があれは誰かと問うた。森田商会の矢崎という丁稚(でっち)だと聞いて、うちの職工でもいやがる仕事をと、矢崎を指名して設計図を渡した。この組電線は森田商会では東京の下町の手内職で作らせていた。やがて矢崎は森田商会の諒解の下に独立して組電線の仕事をはじめた。これが矢崎によって世界のワイヤーファーネスになったのである。遠藤さんはこの話を二つの教訓で結んだ。@トヨタの佐吉翁は、常に現場を重視し、それは中小企業の精神だと言うA矢崎貞美はトヨタの合理化路線に誘発され歯を食いしばってついて行った。
メーター化は業界の民主革命
 メーター法制化を定めたLPガス法施行規則は、昭和五十一年三月三十一日までにメーター化の完全実施を規定した。このころ矢崎総業は日本自動計器を買収して、島田にメーター工場を作った。遠藤はメーターシステムの構築に専心した。「矢崎の遠藤」で、全国を行脚して講習会、講演会を精力的に行った。遠藤里美は、昭和四十九年五月から同五十六年三月まで六年にわたり静岡県協会長だった。この間、国内のみならず韓国のLPGのメーター法制化にも請われて幾度となく出掛けた。
 遠藤さんのLPガス人生は、矢崎総業と共にあって、メーター化、それはLPガス業界の民主主義革命とも言うべきもので、遠藤さんはその革命の先頭を突き進んだ人である。
息子の社長に期待
 息子さんの遠藤茂美社長は、矢崎総業のドイツでの勤務を経てお父さまの会社に入った新進気鋭の経営者である。生憎、茂美社長はお留守で会えなかったが、お父さまの里美会長は、「父が引いた路線を維持しながら発展させるために広い視野で考え、行動してもらいたい」と期待もし、安心の体であった。


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