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(2005/1/24プロパン・ブタンニュース)

群馬燃料社長
大塩孝三氏
尾島よいとこ、一度はござれ

 群馬燃料の大塩孝三社長は、群馬県新田郡尾島町の人である。LPガス販売を始めて50年、いろいろな事があったと、燃料が薪炭、石炭から石油そしてガスへと移行したエネルギー革命の真っ只中に身を置いて今日の群馬燃料を築いてきた経緯を語った。
 大塩さんが群馬燃料を創立したのは昭和33年4月であるが、LPガスに興味を抱き、販売に手を染めたのは群馬燃料創立よりも早く、昭和27年ころである。当時、大塩さんは、群馬県燃料統制組合の職員だった。昭和20年12月に同組合に就職して、昭和27年から33年に退職するまで同統制組合の太田支部長だった。この時期の大塩さんの主な仕事は沼田市や水上町で炭を仕入れて前橋市の業者に卸すことだったが、燃料業界に登場してきたLPガスに着目してその普及に乗り出したのはこのころである。昭和27年には群馬県燃料統制組合がLPガスの販売許可を得た。日石特約店の矢野新系の東亜燃料工業の専務・塚田健次さんがLPガス販売を指南してくれた。昭和30年に群馬県プロパンガス保安協会ができて初代会長に就いた辻亭二郎さんや後に協会長をなさった徳永プロパンガス商会社長・徳永十四男さんからも多くを学んだ。
両毛の広域圏にネットワーク
 群馬燃料は発足して間もなく太田市にLPガスの基地を設けた。手押しポンプで移充填した。その基地の跡は今も田んぼの中に残っている。張り切って始めたものの利益は上がらなかった。
 昭和42年になって太田市西新町に15dストレージタンクを設けて本格的な充填所を稼働させた。その後、充填所は45dストレージタンク1基、20dストレージタンク2基、15dストレージタンク3基を増設、さらにオートガススタンド1基を併設、70立方bサージタンク1基、30立方bサージタンク1基を増設した。この充填所に加えて太田物流センター、桐生営業所、伊勢崎営業所が機能して平成16年3月期には年間1万3,081dのLPガスを販売して両毛地区に確固たる地歩を築いたのである。
新田義貞、家康のルーツ、呑竜さん、そして中島知久平
 大塩社長の生地・尾島町は今年4月に太田市と合併するが、由緒ある土地柄である。誰しも自分が生まれ育った町や村は別してよいものであるが、大塩さんの「お国自慢」は、歴史に裏付けられ、実証的で、説得力がある。
 尾島町は、乱世を風のように走り抜けた英雄・新田義貞の生地である。また、徳川家康の先祖をたどると新田義貞の子孫が尾島の旧世良田村徳川を領し徳川姓を名のったに行き着く。また、近くは大正・昭和期の実業家にして政治家、中島飛行機株式会社の創立者・中島知久平も尾島の人である。中島飛行機は、戦時中に陸軍戦闘機・隼(はやぶさ)をはじめ、わが国の軍用機の3割近くを生産した。最大36万人の従業員が太田の工場にいた。このように太田は、来るものを拒まず、よそ者を受け入れる風土がある。
 ここで大塩さんは太田の大光院(またの名を呑竜さん)の話をした。親孝行息子が病弱の父親のために国禁の鶴を殺して大光院に逃げ込んだ。捕吏の追跡は太田まで及んだ。大光院の呑竜上人はこれを助けた。
 お話を聞きながら現在、大泉の三洋電機の工場に大勢のブラジル人が働いている様が目に浮かんだ。
『八甲田山死の彷徨』に学ぶ
 明治の初め御一新はなったが、壮丁の徴兵は新しい府県制で行わずに旧幕藩制で執行されていた。尾島の壮丁は弘前の連隊に召集された。群馬県新田郡は津軽・弘前藩の飛び地だったのである。何故こんなことを言いだしたか。日露戦争の前夜、8師団の青森5連隊と弘前31連隊に発せられた命令は、八甲田山雪中行軍だった。軍の耐寒装備および行動の演習である。この演習の顛末は新田次郎の『八甲田山死の彷徨』に詳しい。弘前31連隊の雪中行軍隊は辛くも営屯地に帰り着いたが、青森五連隊の雪中行軍隊は悲劇に終わる。
 その敗因は統帥権の紊乱(びんらん)にあった。これは会社経営にも言える。わが社では社員教育のテキストとして『八甲田山死の彷徨』を読ましていると大塩社長は言う。
需要開発一色の賀詞交歓会
 18日、群馬燃料は販売店会と賀詞交歓会を開いた。会場にはLPガスの需要促進の合言葉が満ち溢れ、県協会12支部の電化対抗イベントに積極的に参加しよう。電気のクッキングヒターでは望むべくもないLPガスでお料理を楽しむ会等々、地域に根ざしたイベント企画が花盛りだった。需要開発と保安の確保は、LPガス事業の2大テーマ、古くて新しい問題だと痛感させられた。

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